purpledの日記

自由に生きればこの世の楽園

ピダハン族にとって自殺は爆笑するほど愚かなことらしい

この間読んだピダハン族の本が面白くてそのことばかり考えていた。

この本は語学の才能ある若者がアマゾン奥地で暮らすピダハン族にキリスト教の布教のため彼らの言語を学ぶ過程で、自分の世界観が変容し最終的に無神論者になる話だ。

このピダハン族と彼らの使う言葉、ピダハン語が私のような都市とかに住んでる人たちからするとすごく変わっていて面白い。

ピダハン族はアマゾン川を何日も下ってようやくたどり着くような場所で暮らしており、交易商か周辺の他の部族か宣教師を除いてほとんど外部の交流がない。暮らしぶりは私たち都市に住む人間からすると文明的なものはほとんどなく、植物でできた簡素な家に住み、ジャングルで狩りや採集したり川で漁をしたりして暮らしている。ピダハン族はピダハン以外の道具や知識を継続的に取り入れようとはしない。そのため都市に住む私たちから見て発展と言えるような生活の変化はそれほどおこらない。

ピダハン語を軽く紹介するとピダハン語は中国語のように音の高低で意味が変わる声調言語で文字はない。文法には再帰(文が入れ子になるやつcf彼は今行くと言った(今行くと彼は言ったが入れ子になってる))が無く、また過去形や未来形もない。言語学の話は詳しくないのでよくわからないが、接尾辞というやつが単語について意味が変わるらしい。気になる人はwikiでみてくれ。

ピダハン語の面白いところは色や数字のような具体的ではない言葉がない。右とか左とかもない。それで困らないのかと思うが赤とか言いたいときは血のようだとか右と言いたいときは川の上流の方とか言って意思疎通はできるらしい。

ピダハン語やピダハン族の大きな特徴は直接体験できるものを重視することらしい。自分が直接見ることができない者は話題に上らない。そのため彼らは他の文化でよく見られる創世神話やおとぎ話をもたない。

そんな彼らと30年近く関わりジャングルの環境に悪戦苦闘しながらともに暮らしキリスト教を布教しようとする信仰心には非キリスト教徒の私も少し心打たれる。

本の内容とはそれほど大きくかかわるところではないが自分が印象に残ったところを紹介したい。筆者がピダハンたちとも十分打ち解けたと感じ、自分の信仰について話していた。継母が自殺して苦しかったが信仰のおかげで救われたという話をしたところ、ピダハンたちは大爆笑!自分で自分を殺すのか?愚かだな!ははは!

ふぅ。久しぶりに長い文を書くと元から下手だった作文がさらに下手なっていることに気づいた。自分の文章の内容が散逸的でまとまりがなく感じる。僕の文章は下手だがこの本は単に異文化の紹介や言語学的な内容にとどまらず筆者が自身の世界観を変容する過程が描かれている。それは都市に住む私たちも追体験でき、あらたな発見があると思うので、ぜひ読んでみてほしい。